本むら庵の百年
石臼挽き自家製粉手打ちそばの由来
1924(大正13)年創業の本むら庵は、2024(令和6)年に100周年を迎えます。これも多くの皆さまに支えられてきたお蔭と心より感謝申し上げます。
そこで、大正~昭和~平成~令和と、4つの時代を駆け抜けてきた本むら庵の1世紀を振り返りながら、石臼挽き自家製粉手打ちそば誕生の由来も併せてご紹介致します。
一、小張家の系統
本むら庵を創業した小張家の祖先は、戦国武将・上杉謙信配下の関東一門の武士でした。小張は武人派というよりは歌を詠んだりする文人派。1560年、謙信が小田原の北条氏攻めを計画した際には、北条氏周辺から情報が入っていたのか、難攻不落の小田原城攻めには頑なに反対したそうです。結果的に謙信は小田原城を攻め落とすことができず撤退。やがて上杉家の力が衰え、小張家は北条氏に許されて武蔵野の地に居を定めました。
横浜に金沢文庫という所がありますが、これは北条氏が関東の施政の記録を残した武家文庫です。そこに、杉並や世田谷に住み着いた一族のルーツが断片的ではありますが載っており、「杉並風土記」の中に小張家総本家の記述が残されています。
以来、小張家はこの地で百姓をしていましたが、江戸享保年間に小張家の当主であった吉兵衛が、この一帯に生えていた欅(けやき)が防風林や肥料になるということで重宝されたため、それを江戸市中に卸し、相場を動かすくらいの商いをしていました。この収益で、吉兵衛は近隣のお寺や神社の改築、地蔵の建立などに献じたとのこと。その名残は、現在の荻窪本店中庭の祠にも残っています。
二、そば屋の始まり
明治になって、後に本むら庵の初代当主となる小張清右衛門は、1904(明治37)年、日露戦争に召集されました。出征先は日露戦争最大の激戦地で数多くの戦死者を出した中国二〇三高地。清右衛門は、敵の銃弾が2発貫通し倒れますが、急所を外れて奇跡の生還を果たし、復員後は熱海の陸軍病院で療養してから実家に戻りました。
清右衛門は翌1905(明治38)年に結婚し、子どもを授かりましたが、怪我の後遺症により自身で農作業ができず、地所の耕作は人に頼むようになりました。しかし、それだけでは生業は厳しく、いわゆる「売り食い」の状態が続いていました。
その後、1923(大正12)年、関東大震災が東京を襲い、小張家が住んでいた杉並の上荻窪村本村(ほんむら)周辺には、東京下町から焼け出された人たちがたくさん移り住むようになり、住宅地として開けていきました。
もうここで百姓をやっていても仕方がないということで、小張家の親族は浅草で米屋、牛込でうどん屋と、商売を始めるようになりました。そんな中、清右衛門は「うちは本家だからそば屋にしよう」と開業を決意します。江戸時代から、そば屋は美味い料理と良質な酒を出す憩いの場として庶民に親しまれていたからです。そこで、16歳の息子・義三を知り合いのそば屋に奉公に出すことにしました。
三、出前中心のそば屋として
江戸時代から大正初期まで、そばは手打ちが当たり前。だから、そば屋を開店するには、師となるそば屋へ奉公に入り、長年修行してようやく独立できたのです。ところが、大正時代になってから製麺機が普及し始め、そば屋というそば屋がこぞって機械打ちを導入。これさえあれば時間をかけて修行しなくても簡単に店を開業できるということで、清右衛門もそこに目をつけたのでした。しかも、荻窪周辺には関東大震災で都心から移ってきた新住民が増えており、客にも困らないだろうと考えました。
こうして、1924(大正13)年、本むら庵は開業しました。店名の由来は、地名の上荻窪村本村にあったから。当初は「本村庵」としていましたが1971(昭和46)年の改築の際に、店名の題字を書いていただいた剣持銈太郎氏が、漢字ばかりだと堅いと進言されたのを受けて、「村」をひらがなに変えました。現在も店頭の屋根看板は昔のまま「本村庵」となっています。
しかし、店は駅や繁華街から離れており、人通りもほとんどない所だったので、もっぱら近隣への出前が中心でした。お店では、清右衛門が経営をやりくりし、義三がそば作りと出前に精を出していましたが、配達はどこへ行くにも坂道でなかなかの重労働でした。
以来、本むら庵は出前が9割のそば屋として営業を続けます。しかし、出前のそばは客に届けるまでの間に麺がのびてしまうので、どうしてもつなぎの割合を多くしなければならず、江戸時代から伝わる本物のそばとは異なるものでした。やはり、店内で新鮮なそばを食べてもらうには、人通りの多い繁華街でないと難しいのだろうか?というジレンマを抱えながら営業を続けていました。
四、三代目が店舗を大改装、大一番の勝負へ
義三の長男であった信男は、出前店の大変さを目の当たりにしながら育ちました。それでも男兄弟が6人いたため、自分が家業を継がなくても弟の誰かがやってくれるだろうと、大学卒業後は就職して会社員になりました。できればそのままサラリーマンを続けたいと考えていましたが、やはりそうはいかずまわりに説得され、結局、店を継ぐことになりました。
三代目となった信男は、結婚して家業に精を出す毎日を送っていました。でも、自転車の出前は肩に担ぐのであざができるほど大変な仕事。当時は人手不足で、なかなかこんなきつい仕事をしてくれる人材も見つかりませんでした。
いっそ辞めてしまおうかと思ったこともありましたが、ここが実家だから帰る田舎もありません。しかし、いつまでも出前のそば屋では将来はないと考えた信男は、「出前店から脱却して、味で勝負する手打ちそば専門店に変えよう」と思い立ちました。「刀折れ、矢尽きても、やれることをやろう。だめなら店を閉めてマンションにでもすればいい」という覚悟で店舗の全面改装に踏み切り、ちょうど妻方の従兄に大学で教えている建築家がいたので店の設計を頼みました。
「お前はそば屋だから良いそばを作れ。俺は建築屋だから一生残る良い建物を造る」と言って引き受けてくれました。出来上がった店舗は黒塗りの民芸風建築で、ゆったりとして中庭もあります。今ならこうした風情の店はよく見られますが、当時は、「人も通らない場所にあんな店を出して、一体何を考えているんだ」などと、陰口を叩かれたこともありましたが、お客様の間ではなかなか好評だったようです。
五、機械打ち全盛時代に、石臼挽き手打ちそば
「1971(昭和46)年、42歳の時に、手打ちそば専門店に挑戦するために店を大改装した信男は、やるからには中途半端はいけないと考え、そば粉も店で作る、それも石臼で挽いた粉で手打ちすることにこだわりました。
田舎をまわって農家で使っている石臼を見つけ、石の材質や線の切り具合いを変えて何十パターンもの臼を作って挽いてみると、どれも味が違う。信男は根っからの凝り性だったため石臼作りに熱中していき、試作品は100個にも及びました。これらの石臼のいくつかは今、荻窪本店中庭の花鉢台として残っています。
また、手打ちの技術を習得するのも容易ではありませんでした。何しろほとんどのそば屋が機械で製麺していた時代。伝統的なそば打ちを知っている人を見つけるのもひと苦労でしたが、それでも知人の伝手を頼って、手打ちの技術を持っている人から、江戸そばの打ち方を習得することができました。
さらに、信男は原料にもこだわり、栃木などの山奥の農家を1軒ずつまわって交渉しながら玄そばを買い付けていきました。本むら庵が今も国内産の良質な玄そばにこだわっているのは先代のこうした努力があったからと言えます。
このようにいろいろな産地の玄そばを選び、さまざまな石臼を作って挽き、試行錯誤を繰り返した結果、遂に自信を持ってお客様に召し上がっていただける「本むら庵の味」が完成したのでした。
Column
JR中央線が大久保駅から90度の急カーブを描いている理由
本むら庵の三代目当主・信男はこんな話をよくしていました。
「JR中央線の線路は新宿駅から大久保駅へ北上し、そこから真西へ90度急カーブしてあとは立川まで一直線。なぜ、こんな無茶なカーブを造ったかわかるかい?
もともと明治時代に中央線を敷設する時、本来は甲州街道(現国道20号)沿いに線路を通す計画だった。甲州街道は江戸時代から参勤交代の宿場町として賑わっていたからだ。でもそうなると、土地を召し上げられてしまうと考えた世田谷周辺の農家たちがこぞって反対した。
そこで当時、裏街道として寂れていた青梅街道沿いの住民が、それならこっちへ線路を通してくれと、中野・荻窪あたりの農家が無償で土地を提供した。だから、中央線の線路は新宿駅から北へ向かい、大久保駅から中野駅へ向かって直角にカーブしてまっすぐ伸びる今の線路ができたという訳だ」。
甲州街道沿いに通るはずだった線路を無理に北側へ引っ張って来たから、中央線はちょっと変わったルートになったということでした。
六、テレビで手打ちを実演後、店にお客様が殺到
石臼挽き手打ちそばが完成し、いよいよ店で出し始めた初日、お客様の数は5人でした。それでも「本当に美味しかった、また来るよ」という満足げな言葉を残して帰っていくお客様を見送りながら、信男は明らかに以前とは違う手応えを感じました。そして、5人が10人、20人になり、お客様の数も少しずつ増えていきました。
そんなある日、一人の老紳士が来店されました。信男はどこか見覚えのある人だと思いましたが、他のお客様が、喜劇映画製作の第一人者・山本嘉次郎監督であることを教えてくれました。早速、挨拶をすると、「日本そば新聞」という業界紙に、石臼挽き手打ちそばを食べさせる美味い店ができたというので来てみたと言います。しかも2回目のご来店。前回食べてとても美味しかったのでもう一度来られたとのことでした。
山本監督はよほど本むら庵のそばを気に入ったらしく、3回目に来店した際に、「どうだい、テレビに出ないか?」と、突飛なことを言い出します。当時、高崎一郎という名司会者がフジテレビで放送していた「レディースフォー」という午後の情報番組があって、そこでそば打ちを実演してほしいという出演依頼でした。
信男は折りたたみ式のそば打ち道具を抱えてスタジオ入りし、その場でそばを打って食べてもらいました。当時は手打ち自体が珍しかったので大好評でした。生放送が終わり、帰り道は雨が降ってきたのでどうせ店も閑だろう。夕飯でも食べてから帰ろうと店に電話すると、「店に客があふれているからすぐに帰ってきて!」と、興奮する声が聞こえてきたのでした。
七、六本木支店の開店
「レディースフォー」の出演以来、本むら庵はさまざまなテレビ番組や雑誌で紹介され、石臼挽き手打ちそば店の元祖として名前が知られるようになりました。今ではネットで評判のお店に行列ができるのは珍しくありませんが、SNSもない時代に、本むら庵は「行列ができる店」として紹介されるようになりました。
こうして商売も軌道に乗り、やる気のある若い人材も育ってきたので、本むら庵の味をもっと広めたいという思いから都心に支店を出すことにしました。そこで、取引銀行が紹介してくれたのが六本木。メインストリートから少し入ったビルの中2階で、繁華街につきものの喧騒さがなく、落ち着いた雰囲気も気に入り、1978(昭和53)年、六本木支店としてオープンしました。さすがに狭い店内に製粉機を入れることはできないので、本店で挽いたそば粉を持ち込み、店内で手打ちしてお客様に出すことにしました。
しかし、周辺の飲食店は、お昼時間にサラリーマン向けの割安なランチセットを出していたので、ランチメニューのない本むら庵には当初なかなかお客様が入りませんでした。それでも、信男はランチメニューを出すことなど考えませんでした。本当に美味しいそばを出していれば、いずれわかってもらえると信じていたからです。その見込み通り、次第に常連のお客様が増え、落ち着いた雰囲気で美味しい手打ちそばを楽しめる店として評価が高まっていきました。
また、六本木という場所柄、有名人のお客様も増えていきました。映画監督の黒澤明氏が訪れてくださった時も、あいにく店は混雑して行列ができていましたが、その前からお待ちのお客様を差し置いて先に案内する訳にもいかずお待ちいただくことに。監督も気にするようすもなく静かに並んでくださいました。このエピソードは「世界のクロサワを並ばせるそば屋がある」と、新たな評判を呼ぶきっかけに。最初のうちは閑古鳥が鳴いていた六本木支店も、時を追うに従って多くのお客様に親しまれるようになりました。
八、北京三越のそば店に技術指導
1987(昭和62)年、三越百貨店と野村證券の合弁会社が、北京の空港近くにあるテナントビルのレストラン街で日本そば店を開くので、本むら庵の従業員を派遣して、店の中国人にそば打ちの技術指導を行ってほしいという依頼がありました。
開店準備を進めて、8割くらい工事が終わった1989(平成元)年6月、まもなくオープンという矢先に、中国全土を揺るがす天安門事件が起きました。出店計画は一旦中止となり、日本人は全員一時帰国することに。
その後、情勢が落ち着き開店に漕ぎ着けました。幸か不幸か天安門事件の影響で、以前は北京の中心街にオフィスを構えていた日系企業の多くが、緊急時にすぐ帰国できるようにと空港近くのビルに移転してきたお蔭で、お店も繁盛するようになりました。
しかし、日本のバブル経済がはじけて景気が悪化するとお客様も減り始め、1999(平成11)年7月、三越が北京から撤退したことで店を閉じることになりました。
九、町田・大丸ビーミーのフードコートに出店
1988(昭和63)年、東京・町田市の大丸ビーミー(現町田モディ)に、新しくフードコートをつくるということで、本むら庵に出店の依頼がありました。今ならフードコートはどこのショッピングモールにもありますが、当時はまだ珍しく、本むら庵もテストケースとして出店してみることにしました。
最初は本店と同様に手打ちのそばを出していましたが、狭小スペースのため、手打ち台が1台しか作れず、次々と来店するお客様の数に追いつくことが難しく、致し方なく機械打ちに頼ることに。しかし、それでは納得のいくそばを出すことは無理ということで、2000(平成12)年、ビーミーの閉鎖に伴い閉店することになりました。
Column
店名とともに記される「御免蕎麦司(ごめんそばし)」について
本むら庵の店名と「御免蕎麦司」の題字は、剣持銈太郎という学者に書いていただいたものです。剣持氏は元新宿駅長で、骨董や書学にも精通した人格者。退職後は箱根観光協会の会長をずっと務めていました。信男は新店舗の設計をした妻方従兄の建築家に紹介され、箱根の剣持氏の元に通いながら、いろいろなことを教わるようになりました。
ある時、本むら庵の惹句、今でいうキャッチフレーズのようなものを考えることに話が及びました。そば屋なら「蕎麦処」となるところですが、それでは普通すぎる。「蕎麦匠」という案も出ましたが、最終的に剣持氏は「司」が良いだろうと勧めます。よく「菓子司」という呼び方がありますが、司は仕事としてはいちばん位が上だから「蕎麦司」が良いと。ただし、のぼせやすい信男の性格をわかっていた剣持氏は、けっして見下げたり、のぼせたりしないようにと、その前に「御免」と付けました。
「御免」にはもう一つ意味があります。江戸時代、大名行列が参勤交代で街道を通る際に、町民は道の端で土下座して行列を見送らなければなりませんが、通り沿いの商店の看板は高い所から行列を見下ろしているように見えました。そこで、殿様を尊敬していることの証に「御免」という文字を看板の店名の前に付けていたのです。
こうして剣持氏に書いていただいた「御免蕎麦司」には、つねにひたむきに努力をし、お客様に満足のいくお料理を召し上がっていただきたいという想いが込められ、その精神は今も引き継がれているのです。
十、ニューヨークにHonmura Anを出店
信男には一男二女の子供がいました。世間のしきたりでは、長男の幸一が小張家と本むら庵の跡継ぎとなるのですが、幸一は18歳で米国カリフォルニアに留学して大学院で修士を取得。その後もしばらく米国で暮らしたいとして、サンフランシスコ郊外のシリコンバレーで経営コンサルトの職に就きました。
信男も、若い頃は店を継ぎたくなかったという過去があり、無理強いすることはできません。それでも出前そば屋から手打ちそば屋へ脱却して収めた成功を、何とか継承してほしいとの願いがありました。二人は何度も話し合い、「本むら庵の暖簾を絶やさなければ、世界のどこで店を開いても構わない。どうせだったら世界一が集まるニューヨークに開こうじゃないか」と利害が一致しました。
約10年ぶりに日本へ帰国した幸一は彼のグローバルなネットワークを駆使して、当時まだ倉庫街だったニューヨーク・ソーホーに良い物件を見つけます。帰国中は荻窪本店で経営を学び、接客に磨きをかけ、東京とニューヨークを往復しながら、新店舗オープンの準備を進めました。
こうして1991(平成2)年3月、ニューヨークにHonmura Anがオープンしました。必要な食材は現地でも手に入りましたが、日本産に比べると味や質が劣っていたため、その多くを日本から送っていました。
そば粉も当初、本店で挽いたものを船便で送っていましたが、パナマ運河の通過に日数がかかると劣化してしまうため、後に米国で玄そばを栽培しているアーミッシュ※から調達して、店の石臼製粉機で粉にすることにしました。余談ですが、日本で小型の製粉機を特注し、ニューヨークへ運んで使おうとしたところ、日本との電圧の違いに気づかずに石臼が高速回転したという、笑い話のようなエピソードもありました。
Honmura Anでは、ガラス張りのブースの中で、職人がそば粉をこね上げて細い麺に仕上げていくそば打ちがショータイムのようだと評判となり、ニューヨーカーはもちろん、坂本龍一氏やオノヨーコ氏をはじめ、ニューヨーク在住の日本人の間でも人気店になっていきました。
その後もお客様に恵まれ、順調に営業を続けていたHonmura Anでしたが、9.11同時多発テロ事件以降、米国の移民政策が厳しくなり、日本人の就労ビザが取りにくくなりました。さらに、信男が本むら庵の社長職を娘婿の勝彦に譲った矢先に急逝したこともあって、2007(平成19)年に閉店することにしました。
帰国した幸一は六本木支店を別会社として引き継ぎ、ニューヨーク店のコンセプトを活かしたHONMURA AN TOKYOとしてリニューアルオープン。現在、外国人客も多い新スタイルのSoba Cuisineとして人気を博しています。
なお、HONMURA AN TOKYOは、2022年12月をもって閉店致しました。
- ※アーミッシュ
米国ペンシルベニア州などに居住するドイツ系移民集団。電気や自動車等を使わず、農耕や牧畜による自然の恵みを大切にした自給自足生活を送っている。
Column
東大寺で年越しの手打ちそばを振る舞う
奈良の大仏で有名な東大寺別当であった清水公照住職は、百年に一度と言われる大仏殿昭和の大修理の総指揮を執り、成功に導いた偉大な僧侶。また、軽妙洒脱・自由闊達な書画や陶芸に秀でた方でした。
20年ほど前、清水住職が信頼をおく美術商の案内で、荻窪本店でそばを召し上がっていただいたことがありました。それ以来、住職は本むら庵のそばが病みつきになったらしく、遂には「年末に東大寺に来て、年越しそばを皆に振る舞ってほしい」と頼まれることに。
そこで信男は手挽き石臼や釜をはじめ、そば打ちの道具一式と食材をトラックに積み込み、職人と3人で奈良へ出張そば打ちに行くことに。料理を作って振る舞う4時間のために、3日間をかけて奈良と東京を往復しました。
石臼挽きの手打ちそばはもちろん、そば寿司を作ったり、天ぷらを揚げたり、30〜40人分の料理を境内で作りました。この遠征そば打ちには手間も時間もかかりましたが、「そばってこんなに美味いものか」と東大寺の皆さんにも大好評。その後10年間も続く暮れの恒例行事となったのでした。
十一、耐震とバリアフリーを重視した新店舗
1998(平成10)年6月、荻窪本店は全面改築を行いました。新店舗は、創業前年の関東大震災や1995(平成7)年の阪神・淡路大震災を教訓とし、お客様とスタッフの安心安全を考えて、地中深くまで杭を打った地震に強い頑丈な建物としました。
設計は、前回の改装も手掛けてくださった信男従兄の建築家に再びお願いしました。改築前の民芸的風情を残しながらも、現代的な利便性を持たせたほか、入り口にスロープ、段差のない通路、多目的トイレなど、車椅子でも店内を自在に行き来できる「バリアフリー」をいち早く取り入れた店舗でもあります。
この建物の堅牢性は、2011(平成23)年3月に発生した東日本大震災において、営業中にも関わらずお客様とスタッフを無事に守り、皿1枚落ちなかったことで証明されました。その後は外装の全面修復を行い今日に至っています。
2020(令和2)年から続く新型コロナ禍においては、時短営業を余儀なくされる中、テイクアウト料理の充実を図りながら、「本むら庵の味」とともに、お客様とスタッフの安心安全を守るべく日々精進しております。
本むら庵 四代目当主
小張 勝彦
1958(昭和33)年、神奈川県生まれ。県立川崎高校卒業後、武蔵大学人文学部に入学。本むら庵三代目・信男の長女・陽代と結婚後、後継者として見込まれ、1993(平成5)年、本むら庵に入店。現在、株式会社本村庵・代表取締役。
著書
「本むら庵直伝 そば打ち入門」
日本文芸社(2007/11刊)
小張 勝彦 著